Tuesday, October 18, 2011

涙の行方、震災から6ヶ月 - 宮城ボランティア体験



涙の行方、震災から6ヶ月 - 宮城ボランティア体験
中文版 - here
English - here

「手の平の中の重み」

被災地の汚臭や衛生問題についてのうわさは耳にしていました。そして七月に被災地にようやく辿り着いた私は過去四ヶ月に渡りずっと外に置いてあったであろう食べ物にハエなどの虫が集る光景を目にしました。だけど、臭いだけで言うならばインドのデリーの方が強烈かも知れません。(インドはインドで大好きですが。)

私が参加したボランティアグループは宮城県石巻市付近にある漁村に到着しました。被災地の状態はニュースで見ていたそのままでした。私はこの土地に関して何も知らず、この村との個人的な繋がりもないので、津波の前のこの場所がどんなところだったのかを私は知りません。いずれにせよこれが今の状態であり、もしかしたらずっとこういう場所だったのかも知れません。

倒壊した家、海に飲み込まれ、三角の屋根の一部だけが水面から覗いている家。
水の中に見える破壊されねじ曲がった舗装道路の粉々になった白線が別世界への入り口のように佇み、多くの場所で海と陸の境目が曖昧になっています。

漁村へ向かう途中、がれきの撤去作業がほぼ終了した地域を通り過ぎました。目の前に広がる、何もない風景。目を凝らしてみると地面に家の土台だったものが地面に残っているのが分かります。その風景は遠くにある山の麓まで続いています。

災害後、被災地から届く映像や画像は私の心を痛め続けました。しかし、実際に被災地に足を運び、自分の目でその光景を目にすると、その哀しみが消え去り、この光景を見て浮かんできた涙も止まりました。

その代わりに「この村のために何かをする時が来たのだ」、と考えるようになりました。

東京で寄付金を募るために友人たちと一緒に作成したチャリティー用の絵はがきを取り出し、ヘルメットに貼り付け、絵はがきが運んでくれた支援、世界中の友達から受けたサポート、悲劇の中で起きた数多くの物語について思いを巡らせます。

漁村には二日ほど滞在し、その間、住宅や倉庫のがれき撤去などの作業を行いました。

漁師の暮らしがどういうものなのか私はよく知りません。漁網と針以外の多くの漁業用の道具がいったい何のために必要なのかは私には見当も付きませんでした。

倉庫の中には大量の紙ゴミや粉の入った袋などが積み重ねてあり、それらは海水に浸され、巨大な米袋のように重くなっています。

業務用のハンマーを振り下ろし、テーブルやドアなどをばらし、簡単に移動出来るサイズに崩していきます。

どのくらいの時間そこにいたのかは分からないのですが、ある一件の家で作業していた時、痩せたおばあさんがやって来ました。彼女は庭に整理されて置かれた物を確認し、家の方へと足を向け、家の周囲をベルトのように取り囲んでいる縁側に腰を下ろしました。自分のような新参者はその場所の存在自体に気付いていなかったのですが、そこは庭と目の前にある海の両方を一度に視界に捕えることが出来るスポットでした。そして彼女の着ていた服と座る姿勢と彼女の背中を受け止める家とはあまりにも完全に調和していました。

ボランティアの人たちが倉庫からモノを運び出し、あれこれ壊してはトラックに積んでいくという作業を彼女がどんな気持ちで眺めていたのかは私には分かりません。ですが、そこに座って海を眺めながら魚網を直したり、夫やその他の家族が海から戻ってくる姿を見つけたり、一緒に笑ったり、喧嘩したり、孫が庭で遊ぶ姿を眺めたり、近所の人とうわさ話をしたりという彼女の日常が以前はそこにあり、津波以前の彼女の人生を私は自分でも知らないうちに想像していました。

漁村に居た二日間では、被災者の個人所有物が次々と見つかりました。本、雑誌、装飾、服、靴、皿、箸、スプーン、カセットテープ、ビデオテープ、レコード、ノートパソコンなどです。

それはまるで被災した人たちのそれぞれの物語ががれきの中から断片的に明らかにされていくようでした。ある現場での撤去作業では、平成十八年の日付が刻まれた幼稚園児用のトロフィーと子供用の絵本やおもちゃを発見しました。

トロフィーを手に抱え、泥や砂を拭うと出来れば考えたくない光景が脳裏をよぎります。この子がどうか幸運でありますように、と会ったこともない、男の子か女の子かも分からないその子に向かって私は思わず祈りました。

他のボランティアの人たちも作業中に時折思わず手を止め、見つけたものを数秒凝視しています。ヘルメットとゴーゴルとマスクで覆われ、顔の表情は読み取れないならがも、彼らの頭の中に浮かんでいる感情は身体のリアクションからはっきりと分かります。

かつて壁であった石や海水が染み込んだ毛布や布団、たたみなどを動かすには数人で力を合わせて作業する必要があります。犠牲になった人たちの思い出のモノたちを私たちは一つ一つ手に取って運んでいったのです。

次第に身体も頭もこの地域の重さや津波にさらわれたものの重みに少しずつ慣れ始めました。新品同様だったであろうモノでも泥と砂と海水のせいで全て古びて見えます。がれきの真ん中に立ち尽くして、何を感じるべきなのかすらよく分かりませんでした。

時間が空いたときに周りにいる人と共有出来る冗談や空気中をところ狭しと舞い続ける奇妙な外見の虫の話をすることくらいしか思いつきませんでした。

奇妙に思えるかも知れませんが、壁やドアを破壊し、ゴミの山の頂上にモノを積み上げていく作業は日常生活で募ったストレス解消にもなりました。

以前は災害について考えると気持ちの整理が付かなくなっていたのですが、今回の旅を通じて、がれきから木、鉄、石、プラスティック、燃えるゴミ、燃えないゴミを分別するように絡み合ってしまった思想の糸が整理されていくのを私は感じていました。

身体はよく出来た仕切りのように思え、自分の考えをリセットするのにとても役立ちました。

「人の思い出を保存する」

ボランティアトリップの最終日の作業場所は体育館でした。がれきの中から発見されたモノをきれいにする作業です。

全ての個人所有物は体育館に並べられ、服、掛け軸、バックパック、ハンドバッグ、領収書、免許状、スポーツ用品、トロフィーなどカテゴリーごとに分類されています。それらのモノたちは被災者が取りに来る日を静かに待ち続けているのです。

とりわけ写真の数が多く、体育館の半分くらいが写真で覆われていたといっても過言ではないほどでした。

家族写真、結婚式、卒業式の写真。最近の写真は恐らくほとんど全てデジタル写真になっているのであまりなく、写真に映っている髪型やファッションの多くは70年代、80年代のもの。

この日の作業はバックパックやハンドバッグをきれいにすること。ボランティアスタッフはブラシや歯ブラシを使ってこれらのアイテムに付着した泥や砂を拭っていきます。ほとんど全てのバッグは空の状態ですが、時折、現金や身分証明書などがバッグから発見され、その場合、チームリーダーが身分証明書に書かれている名前を紙に書き写し、それを取っ手の部分にくくり付けていきます。

他のグループの人たちは写真を水に付け、指で泥を落とす作業を行っていました。

体育館の外で作業を行い、一つのバッグの作業を終え、次のバッグを取りにいく時だけ中へ入ったのですが、体育館の中に入ると写真の山を確認しているおばあさんがいたのが偶然目に止まりました。おばあさんは虫眼鏡を手に写真を一枚一枚確認しています。

「あ、これは!これは私の!」と言う彼女の声がしました。彼女は両手で持った写真を胸の中に抱え込み、目が半目開きになっていました。笑顔が彼女の顔に浮かび、低い声で言いました。「ありがとう。ありがとうございます。」

彼女は目からこぼれ落ちる涙を拭いながらも微笑み続けました。

それはかけがえのない大切な何かを失ったことに対する涙。そしてそれは失ったと思っていたかけがえのない大切な何かを見つけたことに対する涙。私にとってそれはここでやっている作業にどんな意味があるのかが目に見えた瞬間でした。

東京へ向けて出発する前にリーダーの男の人がこんな話をしてくれました。「日本では被災地の片付けを手作業でやります。がれきを掘り返し、被災者にとって重要なものが見つけ出せるようにです。機械だけでやると確かに作業はもっと早く進められるのですが、その場合、全てが失われてしまいます。それこそ被災者は本当に全てを失ってしまうことになるのです。」

被災者の思い出や大切な宝物はがれきの下にあります。

あの女性の笑顔を見ることが出来たのはとても幸運でした。わずか三日間の滞在で、この旅の意義を理解することが出来たように思います。

過去に四川やハイチの地震、カトリーナによる洪水などの自然災害が起こった時、私はいくらかのお金を寄付しただけで、その後の生活は何事もなかったかのようにただ続いていきました。

強烈でしかも長時間に渡った今回の地震の日、私は自宅で床に膝を付き、ドアにしがみついて地震が収まるのを待ちました。頭の中が空っぽになり、次第にそれは東北での絶え間ない哀しみや福島の原発事故からの恐怖心で埋め尽くされていきました。そして周囲の人や自分の流す涙に直面しました。まるでページがあちこち抜け落ちた本を強制的に読まされているような気分でした。この全てが何を意味するのかが理解出来ず、この本をもう置いてしまいたい衝動に何度も狩られましたが、その度にこれは自分にとって重要なレッスンである、と自分に言い聞かせ、私は先を読み進みながら抜け落ちたページを探し続けました。

地震の後の数ヶ月間は自分の感情や恐怖心を意識的に制御する必要がありました。あれこれ作業に没頭しながら、どこかに隠れているかも知れない答えを探し続けました。そして東北に足を運ぶチャンスが来るのをただ待ち続けたのです。

東京から宮城に向かう途中で福島、相馬、宮城などの地名が書かれた道路標識がバスの窓のから見えました。(今回の震災前にはいずれも知らなかった地名ばかりです。)バスが石巻に到着した頃には、心の奥底にあるブラックホールにようやく辿り着けたような気がしました。

このボランティアトリップで何を学んだのか完全には理解出来ていません。ですが、抜け落ちていたページが少しずつ水面に向かって上昇してきているのを感じます。

東北に来たのは他でもなく自分自身のためです。

旅を終えた後、今回の震災の記憶をより直接的に受け入れているようになった自分に気が付きました。

私は体育館で見かけたおばあさんに「ありがとう」を伝えたかったです。彼女の笑顔は私の勇気になりました。彼女が津波以後にどんな思いをしてきたのかは私には想像することすら出来ません。

「次の日本へ」

ボランティアトリップのある日、午後二時くらいに、震度5.5の地震が起こりました。近くの山へと全員避難する必要があり、津波の危険はありません、という通知が出るまでそこで待機しました。

村に戻り、再び作業を開始しようとしたのですが、大きな地震がやってくるかも知れない可能性があるという役所側の判断により、結局全員また避難することになりました。ボランティアスタッフはしぶしぶ作業の手を止めます。作業を早く切り上げるために宮城までやって来た人は誰一人いません。

この二日間で私たちはこの手の肉体労働には休憩が不可欠である、ということ、この作業が終わるにはまだ後数年かかるであろう、ということを思い知らされました。目の前にあるがれきを眺めながら座っているのはさながら我慢比べのようでした。

その前の二晩、ボランティアスタッフ同士で一緒に座り、飲んだり話したりしていたのですが、この晩に限ってはその時間が少し長すぎました。

今回のボランティアトリップのようによく知らない環境で、様々な人たちと話していると自分がバックパッカーだった頃のことを思い出します。

ボランティアの参加者は日本全国からだけでなくヨーロッパやアメリカから駆けつけた人もいました。スイス人のトーマスはそのうちの一人。彼はもともと旅行代理店で日本をターゲットとしたマーケティングマネジャーをやっていたのですが、地震の後、日本行きのツアーの予約は全てキャンセルとなり、新しい予約も入りませんでした。彼は仕事を辞め、北海道から九州までを歩いて旅することを決めたのです。人に明るいイメージとメッセージを送りたい、と彼は願っています。

また20歳の男の子と19歳の女の子のデンマーク人のカップルも居ました。

アメリカ人の親子も参加していました。息子は16歳でした。

自分の国で流れる震災のニュースが悲観的なものばかりであることに全員がフラストレーションを感じていました。多くの場合、状況を誇張したレポートがされているのが現状です。ですが、世界が日本に今注目し、多くの人が被災地に救援のために駆けつけているのはそのイメージによる部分が大きい、ということもみんな同意するところでした。

日本人の方で、ボランティア作業にすでに何度も参加している人もたくさんいました。70歳になる栗原さんはボランティアに参加した外国人グループに感謝の言葉を述べ続け、夕食の後にいつもビールをごちそうしてくれました。

会話を交わした女性の方はもう四度目の参加だと教えてくれました。彼女の二人の娘は福島の原発近くの病院で三ヶ月ほどボランティアをしているそうです。

宮城から東京に戻るまでおよそ七時間かかりました。もうすぐ誕生日の人がいたので、ケーキと飲み物をレストエリアで買い込み、バスの中でささやかなパーティーを開きました。

宮城に居た時、友人の一人が岩手でボランティアをしていることを知りました。他にもこのボランティアトリップの間に様々な話を聞くことが出来ました。その中でも「石巻市」を英訳すると「Rock ‘n Roll City」になる、というジョークは私のお気に入りです。

東京に戻った後、自分の部屋にあるモノを眺めながら、そのモノたちに付随する物語や歴史について思いを巡らせました。そしてがれきの山の中から私のモノをボランティアの人が見つけ出す場面を頭の中に描いてみました。

戻って来てから、今回の体験を数人(特に東北出身の人たち)に話すと、全員が日本を助けてくれてありがとう、と感謝の言葉をかけてくれました。

彼らが示してくれた敬意に私も感謝しました。私自身もそれによって救われた気がしたからです。ですが、東北に行ったのは自分に対しての気持ちに収集を付けるためだったことも自分で分かっています。今回の旅では自分が与えることが出来た分よりも受け取った分の方が多かったように思います。

東北の救済のために私よりもはるかに献身的なボランティアの人たちがたくさんいました。より意味のあることをやっている人たちも大勢います。私の貢献はほんの些細なものに過ぎません。

311の地震、津波、そして原発問題がどれほどショッキングで重大な事件であろうとも、最も大切なのは今回の震災から日本が再び立ち上がるまでの過程です。

東北が一日も早く復興することを願って止みません。
そのうちまた東北を訪れるつもりでいます。

Kachun
2011年9月11日
翻訳者 Miles Yebisu (facebook)

日本.再出発 — 在日港人311地震後感 
【著】22位在日港人
三聯書店(香港)有限公司 
http://www.jointpublishing.com.hk/books/

Kachun はこの本に寄稿した一人です。



****************************************************************
Please follow “Japan Reboot Project" on facebook for more updates
請多多支持 “Japan Reboot Project”
“Japan Reboot Project” のページをご覧ください。

facebook.com/japanrebootproject

****************************************************************

No comments: