Monday, September 10, 2012

[Web Design] 2012/07 Irving アービング Entertainment Company



(韓国)リュ・シウォン、クォン・サンウ、チョン・ウソンetc. (日本)仁科仁美、白石朋也、カロリナ、城田純、永尾まりや(AKB48)、ラモス瑠偉 Ruy Ramos etc. タレントのマネジメント。

http://irving.co.jp/
(beta)

ぜび、ご覧下さい。
Please have a look!

そして、まだ beta バージョンですから、なんかバッグがあれば、教えて下さい。(笑)
And, it's still beta, so if there's any bug, please let us know!

Concept/Chief Design - Oki Kasajima
Developer/Secondary Design - Kachun

Thursday, January 19, 2012

Happy New Year

Happy New Year!
明けましておめでとうございます。

It's past 2 weeks into 2012.
もう2012年の第二週間目です。

I have been lazy about money making related things - spent the past 3, 4 weeks doing things that pleased no one but just myself.
まえの三、四週間に、お金のためにのことをやる気がなかった。自分好きなことばかりやりました。

Naturally, it was quite difficult to show down right away, after 4 extremely busy months. 4 busy months of keeping myself up for my part-time teaching job, my freelance design illustration job, & the charity book for 311 Earthquake and Tsunami.
自然に、四ヶ月間すっと忙しかったの後、最初にはゆっくり生活になれなかった。四ヶ月間に先生のアルバイトと、デザインとイラストの仕事、と震災のチャリティー本、三つのこと一緒にやれと、生活のバランスは難しくなった。

But nonetheless, now I could finally reach the kind of quietness that I feel comfortable in my life. I could spend time with the people I like and also my girlfriend.
でも、いまは、自分の生活、心地よい静かなになった。やっと、好きな人々と彼女と遊ぶ時間があります。

I believed I have made another major step on the development of my personal life and my drawing life in 2011.
2011 年にやったことは、自分の人生にも、私の絵の人生にも、大切な一年になったと思います。

I believe 2012 will be the year for myself to take a step back and have a more sustainable approach.
2012年には、ペースはもっとゆっくりにして、もっと持続可能なやり方をすると思います。

Tuesday, October 18, 2011

涙の行方、震災から6ヶ月 - 宮城ボランティア体験



涙の行方、震災から6ヶ月 - 宮城ボランティア体験
中文版 - here
English - here

「手の平の中の重み」

被災地の汚臭や衛生問題についてのうわさは耳にしていました。そして七月に被災地にようやく辿り着いた私は過去四ヶ月に渡りずっと外に置いてあったであろう食べ物にハエなどの虫が集る光景を目にしました。だけど、臭いだけで言うならばインドのデリーの方が強烈かも知れません。(インドはインドで大好きですが。)

私が参加したボランティアグループは宮城県石巻市付近にある漁村に到着しました。被災地の状態はニュースで見ていたそのままでした。私はこの土地に関して何も知らず、この村との個人的な繋がりもないので、津波の前のこの場所がどんなところだったのかを私は知りません。いずれにせよこれが今の状態であり、もしかしたらずっとこういう場所だったのかも知れません。

倒壊した家、海に飲み込まれ、三角の屋根の一部だけが水面から覗いている家。
水の中に見える破壊されねじ曲がった舗装道路の粉々になった白線が別世界への入り口のように佇み、多くの場所で海と陸の境目が曖昧になっています。

漁村へ向かう途中、がれきの撤去作業がほぼ終了した地域を通り過ぎました。目の前に広がる、何もない風景。目を凝らしてみると地面に家の土台だったものが地面に残っているのが分かります。その風景は遠くにある山の麓まで続いています。

災害後、被災地から届く映像や画像は私の心を痛め続けました。しかし、実際に被災地に足を運び、自分の目でその光景を目にすると、その哀しみが消え去り、この光景を見て浮かんできた涙も止まりました。

その代わりに「この村のために何かをする時が来たのだ」、と考えるようになりました。

東京で寄付金を募るために友人たちと一緒に作成したチャリティー用の絵はがきを取り出し、ヘルメットに貼り付け、絵はがきが運んでくれた支援、世界中の友達から受けたサポート、悲劇の中で起きた数多くの物語について思いを巡らせます。

漁村には二日ほど滞在し、その間、住宅や倉庫のがれき撤去などの作業を行いました。

漁師の暮らしがどういうものなのか私はよく知りません。漁網と針以外の多くの漁業用の道具がいったい何のために必要なのかは私には見当も付きませんでした。

倉庫の中には大量の紙ゴミや粉の入った袋などが積み重ねてあり、それらは海水に浸され、巨大な米袋のように重くなっています。

業務用のハンマーを振り下ろし、テーブルやドアなどをばらし、簡単に移動出来るサイズに崩していきます。

どのくらいの時間そこにいたのかは分からないのですが、ある一件の家で作業していた時、痩せたおばあさんがやって来ました。彼女は庭に整理されて置かれた物を確認し、家の方へと足を向け、家の周囲をベルトのように取り囲んでいる縁側に腰を下ろしました。自分のような新参者はその場所の存在自体に気付いていなかったのですが、そこは庭と目の前にある海の両方を一度に視界に捕えることが出来るスポットでした。そして彼女の着ていた服と座る姿勢と彼女の背中を受け止める家とはあまりにも完全に調和していました。

ボランティアの人たちが倉庫からモノを運び出し、あれこれ壊してはトラックに積んでいくという作業を彼女がどんな気持ちで眺めていたのかは私には分かりません。ですが、そこに座って海を眺めながら魚網を直したり、夫やその他の家族が海から戻ってくる姿を見つけたり、一緒に笑ったり、喧嘩したり、孫が庭で遊ぶ姿を眺めたり、近所の人とうわさ話をしたりという彼女の日常が以前はそこにあり、津波以前の彼女の人生を私は自分でも知らないうちに想像していました。

漁村に居た二日間では、被災者の個人所有物が次々と見つかりました。本、雑誌、装飾、服、靴、皿、箸、スプーン、カセットテープ、ビデオテープ、レコード、ノートパソコンなどです。

それはまるで被災した人たちのそれぞれの物語ががれきの中から断片的に明らかにされていくようでした。ある現場での撤去作業では、平成十八年の日付が刻まれた幼稚園児用のトロフィーと子供用の絵本やおもちゃを発見しました。

トロフィーを手に抱え、泥や砂を拭うと出来れば考えたくない光景が脳裏をよぎります。この子がどうか幸運でありますように、と会ったこともない、男の子か女の子かも分からないその子に向かって私は思わず祈りました。

他のボランティアの人たちも作業中に時折思わず手を止め、見つけたものを数秒凝視しています。ヘルメットとゴーゴルとマスクで覆われ、顔の表情は読み取れないならがも、彼らの頭の中に浮かんでいる感情は身体のリアクションからはっきりと分かります。

かつて壁であった石や海水が染み込んだ毛布や布団、たたみなどを動かすには数人で力を合わせて作業する必要があります。犠牲になった人たちの思い出のモノたちを私たちは一つ一つ手に取って運んでいったのです。

次第に身体も頭もこの地域の重さや津波にさらわれたものの重みに少しずつ慣れ始めました。新品同様だったであろうモノでも泥と砂と海水のせいで全て古びて見えます。がれきの真ん中に立ち尽くして、何を感じるべきなのかすらよく分かりませんでした。

時間が空いたときに周りにいる人と共有出来る冗談や空気中をところ狭しと舞い続ける奇妙な外見の虫の話をすることくらいしか思いつきませんでした。

奇妙に思えるかも知れませんが、壁やドアを破壊し、ゴミの山の頂上にモノを積み上げていく作業は日常生活で募ったストレス解消にもなりました。

以前は災害について考えると気持ちの整理が付かなくなっていたのですが、今回の旅を通じて、がれきから木、鉄、石、プラスティック、燃えるゴミ、燃えないゴミを分別するように絡み合ってしまった思想の糸が整理されていくのを私は感じていました。

身体はよく出来た仕切りのように思え、自分の考えをリセットするのにとても役立ちました。

「人の思い出を保存する」

ボランティアトリップの最終日の作業場所は体育館でした。がれきの中から発見されたモノをきれいにする作業です。

全ての個人所有物は体育館に並べられ、服、掛け軸、バックパック、ハンドバッグ、領収書、免許状、スポーツ用品、トロフィーなどカテゴリーごとに分類されています。それらのモノたちは被災者が取りに来る日を静かに待ち続けているのです。

とりわけ写真の数が多く、体育館の半分くらいが写真で覆われていたといっても過言ではないほどでした。

家族写真、結婚式、卒業式の写真。最近の写真は恐らくほとんど全てデジタル写真になっているのであまりなく、写真に映っている髪型やファッションの多くは70年代、80年代のもの。

この日の作業はバックパックやハンドバッグをきれいにすること。ボランティアスタッフはブラシや歯ブラシを使ってこれらのアイテムに付着した泥や砂を拭っていきます。ほとんど全てのバッグは空の状態ですが、時折、現金や身分証明書などがバッグから発見され、その場合、チームリーダーが身分証明書に書かれている名前を紙に書き写し、それを取っ手の部分にくくり付けていきます。

他のグループの人たちは写真を水に付け、指で泥を落とす作業を行っていました。

体育館の外で作業を行い、一つのバッグの作業を終え、次のバッグを取りにいく時だけ中へ入ったのですが、体育館の中に入ると写真の山を確認しているおばあさんがいたのが偶然目に止まりました。おばあさんは虫眼鏡を手に写真を一枚一枚確認しています。

「あ、これは!これは私の!」と言う彼女の声がしました。彼女は両手で持った写真を胸の中に抱え込み、目が半目開きになっていました。笑顔が彼女の顔に浮かび、低い声で言いました。「ありがとう。ありがとうございます。」

彼女は目からこぼれ落ちる涙を拭いながらも微笑み続けました。

それはかけがえのない大切な何かを失ったことに対する涙。そしてそれは失ったと思っていたかけがえのない大切な何かを見つけたことに対する涙。私にとってそれはここでやっている作業にどんな意味があるのかが目に見えた瞬間でした。

東京へ向けて出発する前にリーダーの男の人がこんな話をしてくれました。「日本では被災地の片付けを手作業でやります。がれきを掘り返し、被災者にとって重要なものが見つけ出せるようにです。機械だけでやると確かに作業はもっと早く進められるのですが、その場合、全てが失われてしまいます。それこそ被災者は本当に全てを失ってしまうことになるのです。」

被災者の思い出や大切な宝物はがれきの下にあります。

あの女性の笑顔を見ることが出来たのはとても幸運でした。わずか三日間の滞在で、この旅の意義を理解することが出来たように思います。

過去に四川やハイチの地震、カトリーナによる洪水などの自然災害が起こった時、私はいくらかのお金を寄付しただけで、その後の生活は何事もなかったかのようにただ続いていきました。

強烈でしかも長時間に渡った今回の地震の日、私は自宅で床に膝を付き、ドアにしがみついて地震が収まるのを待ちました。頭の中が空っぽになり、次第にそれは東北での絶え間ない哀しみや福島の原発事故からの恐怖心で埋め尽くされていきました。そして周囲の人や自分の流す涙に直面しました。まるでページがあちこち抜け落ちた本を強制的に読まされているような気分でした。この全てが何を意味するのかが理解出来ず、この本をもう置いてしまいたい衝動に何度も狩られましたが、その度にこれは自分にとって重要なレッスンである、と自分に言い聞かせ、私は先を読み進みながら抜け落ちたページを探し続けました。

地震の後の数ヶ月間は自分の感情や恐怖心を意識的に制御する必要がありました。あれこれ作業に没頭しながら、どこかに隠れているかも知れない答えを探し続けました。そして東北に足を運ぶチャンスが来るのをただ待ち続けたのです。

東京から宮城に向かう途中で福島、相馬、宮城などの地名が書かれた道路標識がバスの窓のから見えました。(今回の震災前にはいずれも知らなかった地名ばかりです。)バスが石巻に到着した頃には、心の奥底にあるブラックホールにようやく辿り着けたような気がしました。

このボランティアトリップで何を学んだのか完全には理解出来ていません。ですが、抜け落ちていたページが少しずつ水面に向かって上昇してきているのを感じます。

東北に来たのは他でもなく自分自身のためです。

旅を終えた後、今回の震災の記憶をより直接的に受け入れているようになった自分に気が付きました。

私は体育館で見かけたおばあさんに「ありがとう」を伝えたかったです。彼女の笑顔は私の勇気になりました。彼女が津波以後にどんな思いをしてきたのかは私には想像することすら出来ません。

「次の日本へ」

ボランティアトリップのある日、午後二時くらいに、震度5.5の地震が起こりました。近くの山へと全員避難する必要があり、津波の危険はありません、という通知が出るまでそこで待機しました。

村に戻り、再び作業を開始しようとしたのですが、大きな地震がやってくるかも知れない可能性があるという役所側の判断により、結局全員また避難することになりました。ボランティアスタッフはしぶしぶ作業の手を止めます。作業を早く切り上げるために宮城までやって来た人は誰一人いません。

この二日間で私たちはこの手の肉体労働には休憩が不可欠である、ということ、この作業が終わるにはまだ後数年かかるであろう、ということを思い知らされました。目の前にあるがれきを眺めながら座っているのはさながら我慢比べのようでした。

その前の二晩、ボランティアスタッフ同士で一緒に座り、飲んだり話したりしていたのですが、この晩に限ってはその時間が少し長すぎました。

今回のボランティアトリップのようによく知らない環境で、様々な人たちと話していると自分がバックパッカーだった頃のことを思い出します。

ボランティアの参加者は日本全国からだけでなくヨーロッパやアメリカから駆けつけた人もいました。スイス人のトーマスはそのうちの一人。彼はもともと旅行代理店で日本をターゲットとしたマーケティングマネジャーをやっていたのですが、地震の後、日本行きのツアーの予約は全てキャンセルとなり、新しい予約も入りませんでした。彼は仕事を辞め、北海道から九州までを歩いて旅することを決めたのです。人に明るいイメージとメッセージを送りたい、と彼は願っています。

また20歳の男の子と19歳の女の子のデンマーク人のカップルも居ました。

アメリカ人の親子も参加していました。息子は16歳でした。

自分の国で流れる震災のニュースが悲観的なものばかりであることに全員がフラストレーションを感じていました。多くの場合、状況を誇張したレポートがされているのが現状です。ですが、世界が日本に今注目し、多くの人が被災地に救援のために駆けつけているのはそのイメージによる部分が大きい、ということもみんな同意するところでした。

日本人の方で、ボランティア作業にすでに何度も参加している人もたくさんいました。70歳になる栗原さんはボランティアに参加した外国人グループに感謝の言葉を述べ続け、夕食の後にいつもビールをごちそうしてくれました。

会話を交わした女性の方はもう四度目の参加だと教えてくれました。彼女の二人の娘は福島の原発近くの病院で三ヶ月ほどボランティアをしているそうです。

宮城から東京に戻るまでおよそ七時間かかりました。もうすぐ誕生日の人がいたので、ケーキと飲み物をレストエリアで買い込み、バスの中でささやかなパーティーを開きました。

宮城に居た時、友人の一人が岩手でボランティアをしていることを知りました。他にもこのボランティアトリップの間に様々な話を聞くことが出来ました。その中でも「石巻市」を英訳すると「Rock ‘n Roll City」になる、というジョークは私のお気に入りです。

東京に戻った後、自分の部屋にあるモノを眺めながら、そのモノたちに付随する物語や歴史について思いを巡らせました。そしてがれきの山の中から私のモノをボランティアの人が見つけ出す場面を頭の中に描いてみました。

戻って来てから、今回の体験を数人(特に東北出身の人たち)に話すと、全員が日本を助けてくれてありがとう、と感謝の言葉をかけてくれました。

彼らが示してくれた敬意に私も感謝しました。私自身もそれによって救われた気がしたからです。ですが、東北に行ったのは自分に対しての気持ちに収集を付けるためだったことも自分で分かっています。今回の旅では自分が与えることが出来た分よりも受け取った分の方が多かったように思います。

東北の救済のために私よりもはるかに献身的なボランティアの人たちがたくさんいました。より意味のあることをやっている人たちも大勢います。私の貢献はほんの些細なものに過ぎません。

311の地震、津波、そして原発問題がどれほどショッキングで重大な事件であろうとも、最も大切なのは今回の震災から日本が再び立ち上がるまでの過程です。

東北が一日も早く復興することを願って止みません。
そのうちまた東北を訪れるつもりでいます。

Kachun
2011年9月11日
翻訳者 Miles Yebisu (facebook)

日本.再出発 — 在日港人311地震後感 
【著】22位在日港人
三聯書店(香港)有限公司 
http://www.jointpublishing.com.hk/books/

Kachun はこの本に寄稿した一人です。



****************************************************************
Please follow “Japan Reboot Project" on facebook for more updates
請多多支持 “Japan Reboot Project”
“Japan Reboot Project” のページをご覧ください。

facebook.com/japanrebootproject

****************************************************************

Sunday, September 11, 2011

As Tears Go By, 6 months after – 宮城縣義工後感 (中文版)



[As Tears Go By, 6 months after – 宮城縣義工後感]
English - here
日本語 - here

[雙手裡的重量]

聽說過災區滿佈惡臭,衛生環境惡劣。
七月中親身到達現場,可看到四個月以來長期暴露在室外的食物,粘附大量蒼蠅和不知名的昆蟲。
坦白說,記憶中在德里旅行時,看到的有些地區情況比這災區還要差。(雖然如此,我是很喜歡印度。)

我參加的義工團隊所到地方是宮城縣石券市旁一個魚村。

那時候看到的就如新聞所導中看到的災區一樣。

對這魚村沒有記憶和感情。不知道這裡在海嘯之前景色是怎樣。第一次來到就是這個模樣,就像這裡一直都是這個模樣。

一些房屋倒塌在地上,一些房屋沉在海洋裡,露出三角形屋頂。
海水下,斷裂扭曲的混凝土馬路和白色虛線,像是指示一條可通往另一個世界的道路。
多處地方,陸地和海洋的交界變得模糊。

抵達魚村之前,經過了一段已經差不多被清理好的地方。 那時候,眼前看到的只是一塊大空地。是細心留意後,才發覺到在地上留下那連綿無數的房屋地基。一直伸延到遠處雙眼看不清楚的山脚下。

自災難發生以來,每次從相片或螢光幕中看到這些情景的時候,內心總會感到一陣悲哀。

但是當自己確實到達現場時,那種悲哀感不見了。之前那不能自制的淚水也消失了。

只有想到,「終於到了為這地方做一點事的時候了。」

把頭盔拿到手裡,貼上從災難發生以來,和東京朋友們一起努力籌款用的明信片。回想他們和世界各地朋友對自己的支持。想起這一段日子裡一些故事。

有兩天工作是在這魚村裡進行。主要工作是去清理幾個魚民的家和他們的魚工場。

我不清楚魚民的生活, 在清掃途中除魚網和魚勾之外,看到很多不知道是什麼的道具。

魚工場內有很多紙做雜物和一包一包不知道是什麼的粉末。 因還是濕透了海水,變得尤其沉重。
魚工場內也有很多巨型卓子和門,要用大槌把它們打成碎片,方便搬運。

在其中一個魚民的家裡工作期間,不知道從何時來了一位白髮纖瘦婦人。她在前園裡,檢查了一些放在那裡整齊排列的雜物後,走到大屋去,在那環繞屋外的走廊坐下來。
一處我這外人沒有注意到,是這屋子裡最能夠瞭望前園一切和遠處海洋的角落。

她的服飾、坐姿和她身後的屋子,像一幅油畫般溶為一體。

我一邊協助清理,一邊在想她是懷著什麼心情,看著我們這些義工,把門一道一道打碎,把前園和魚工場內的東西當作垃圾般丟到小型貨車尾廂。

只是個人推想,可能她平日就常坐在那處看著面前的海洋,修補魚網。這樣地看著丈夫和家人捕魚後回家, 和大家說笑或爭吵。看著孫兒們在前園玩耍和鄰居說說別人是非。

一直在想像她海嘯前每天的生活。

那幾天從瓦礫中不停地發現到災民個人物品 - 書本、雜誌、家庭佈置、衣服、鞋子、碗碟、匙筷、卡式錄音帶、錄影帶、黑膠唱片、手提電腦等等。

雙手在瓦礫中,不停地掘起這一家人每天日常生活。不停地掘起災民一家人由老年人到小孩的歷史。

在其中一堆瓦礫中掘起來的物件中,有一個刻著平成十八年幼稚園獎狀(現為平成二十三年) ,一些兒童畫冊和玩具。

手裡握著那獎狀,把污泥和沙抹去。腦海裡產生了很多不必要的幻象。

能做的,就只有在心裡,祝這小孩安然無恙。

有些時候,自己也會看到其他義工凝望著在瓦礫中找到的東西,握在手裡,停頓了數十秒。
帶著頭盔、眼罩、和口罩的義工們,從身體語言中看到各人的個人感受。

一張張濕透了海水的被毯、被褥、塌塌米,一磚磚石牆碎塊,要多人一起才可搬動。
自己能夠拿在手裡,是一件件災民的私人物品。
身體和內心慢慢地適應,被海嘯淹沒或沖擊過的東西,所帶來的重量。

海水、污泥和沙,把很多再新的東西,都變成陳年舊物一樣。

站立在這些瓦礫中,有很多不明白的感覺。

是有時間去想事情的時候,也只會想到,和週邊的人說一些笑話。或是去討論,那些突然飛出來的各種畸形昆蟲。

坦白說,能夠這樣用大槌把物件和石牆拆毀,把雜物用力地拋往垃圾山頂處,使到自己在日常忙碌生活中得到的壓力,得以舒緩。

自己也在這次義工過程中,把之前每當想到這場災難,而變得雜亂無章的思緒,像處理災區垃圾般把木、鐵、石、塑膠、可燃燒的、不可燃燒的, 一件一件分類。

是用體力去作比喻法,把腦海裡很多的東西,去重新調整。

[要守護的記憶]

義工工作最後一天,到了一所體育館去清潔在災區發現的私人物品。

體育館內,整齊地把各樣物件分類 - 衣服、字畫、背包、手袋、收據、証書、體育用品和獎狀等等。 各種各樣的物品等待著災民認領。

尤其是存放相片的地方。占有面積是體育館一半以上。

有家庭照,結婚照,畢業照。可能近代照都是digital 的關係,看到的大部份是七、八十年代服飾和髮型。

自己那天主要是去洗刷背包和手袋。義工們用掃或牙刷把沙和污泥抹去。 背包和手袋中的東西大部份也已被分類,只是極度偶而會有物主個人証件或金錢掉出來。領隊也就會依著証件上姓名寫到一張紙上,然後貼到那個背包上。

另外一旁有數人在水盆中以手指清洗照片。

清潔工作都是在室外進行。只會在把洗淨的背包或手袋,放回原處,再拿另一個時,才會進入體育館裡。

巧合地有一次,在進入體育館裡時,看到一名身型頗為肥胖老婦人。她用著一個放大鏡,去細心檢看一張又一張照片。
她突然地道,「啊!這…這是我的! 是我的! 」然後雙手把那張照片按在胸口上,一邊眯起雙眼地笑著,一邊以較少的聲量說道,「 真的太好了…謝謝。謝謝。」然後一邊保持著微笑,一邊刷去眼角的淚水。

因為失去了不能填補的東西而流淚。

因為失而復得那不能填補的東西而再次流淚。

看到這個情景,自己才明白這幾天的工作是為了什麼。

從東京出發前,和帶隊談話中聽到,「在日本,清理災區的方法,是要用手在廢墟裡,找可能對災民來說是很重要的東西。如果是只用機械快速地去清理現場的話,就真的把什麼也拆毀。災民就真的什麼也沒有了。」

在廢墟中藏著災民的記憶,藏著他們的寶物。

自己是很幸運地,能夠看見這位婆婆開心的一幕。來當義工只是三天,就直接地看到一些成果。

一直以來,在看到重大天災新聞報導時,像四川和海地地震,Katrina水災,都只是捐款後便繼續自己的生活。

但這一次地震,發生那天,像不會停下來的強烈震度使自己不由自主地跪在家裡的地上,雙手扶在門框,腦海一片空白。然後是看著災情的哀傷和核恐慌。看到很多別人和自己的淚水。看著這一切,像是被強迫地閱讀著一本缺少了數頁的書,不能理解。有不想再看的時候,但這是對自己重要的一課,選擇了繼續閱讀下去,找尋那缺少了的頁數。

地震發生以來,是以意志去控制自己的憂慮和情緒。一直在做著很多事情希望可以找到答案。耐心地等待可以抽身到東北的機會。

從東京前來石券市途中,看著因為這次災難而認識到的地方名字,福島,相馬,宮城,一個又一個的路牌,隨著巴士的窗邊經過。最後終於到了石券市,像是在象徵著自己到達那內心深處的黑點。

真正在義工旅程裡,學會了什麼還沒有全部消化下來。只是意識到,在這次義工旅程中,那缺少了的數頁,逐一逐一浮現。

自己到東北來當義工是為了自己的個人感受。

也確實地在這次義工旅程之後,開始更完整地正視這一段記憶。

「謝謝,婆婆。」她的笑顏給予我勇氣。

我很難想像她在海嘯以來經歷過什麼。

[To the Next Japan]

義工工作其中一天,大約下午二時,發生過一次五點五級地震。大家也要先走到山裡去暫避。等待收到「沒有海嘯來臨」通知後,才回到原來工作崗位。
但是當各人準備再繼續工作的時候,因為當局擔心會有更強烈的地震,全數義工被安排撤離現場。

義工們也得無奈地放下手上工作。是不甘心,這樣千里迢迢來到災區不是為了能夠早點收工。

在過去兩天, 大家也是知道這種體力勞動的工作,是需要足夠的休息。也是明白災區裡的清理工作是需要時間。但是在每次中途休息的時候,坐在一旁,看著眼前的瓦礫,這就像是在考驗自己的耐性一樣。

雖然之前大家在晚上,也因為沒有什麼事可做,常坐在一起喝酒聊天。但是那一天可這樣做的時間變得更漫長。

這次義工工作中,也有點像以往在流浪的時候一樣。身處在自己完全不相識的地方裡,遇到各種各樣的人。

除了來自日本各地的日本人外,也有從歐洲和美國來的義工。

其中一名來自瑞士叫Thomas。他本來是一個旅行社營銷經理,專注日本旅行團。但因為這次三重災難,原本已經預約好的旅客,都把旅程取消。四個月裡一個到日本的預約也沒有。所以決心把工作遲去,在今年8月開始,從北海道開始徒步走到九州。希望可以藉此帶出一些關於日本的正面信息。

另外,是一對二十和十九歲來自丹麥的情侶,和來自美國父子兩人,兒子只有十六歲。

各人也不滿自己國家新聞機構,對日本這次災難,只有誇張式和負面報導而感到氣憤。但是也同意因為這樣,才引起全世界注意和對這事件關心,使到自己決定親身到來一趟。

遇到的日本人中,也有一些已經多次來到東北當義工。

其中有一位七十歲的栗原先生,每一天晚上吃飯時,也不停地說感謝我們這一些外國人,前來東北當義工,而且請喝啤酒。

有一位中年婦人,她已經是第四次來到東北當義工。她自己兩個女兒,也自願地到了福島核電站附近的醫院,當義工三個月。

從宮城回到東京需要七個小時車程,大家也因為其中一人生日將近,在中途休息期間購買了蛋糕和酒,在車上為他慶祝。

也在facebook 上得知道,自己在宮城縣的這一段時間,有一位朋友在岩手縣當義工。

在這旅程中聽到很多的故事中,一個自己比較喜歡的笑話是,石券市可以叫作「Rock and Roll City」。

回到東京家裡,看著家裡各樣雜物,想起它們的來歷和一些故事。想像這些東西被埋在廢虛裡,被義工發現的情況。

也在正常生活中,和朋友說起這一次經歷,自己都會受到他們的稱讚。尤其是東北出身的,特別感謝我為他們老家做了一件有意義的事情。

自己十分感謝他們的好意。被讚美是一種良好感覺。只是,自己是明白,到東北去,是想自己好過一點。也在這一次經歷中,我得到的比付出的要多。

而且,是看見到有更多比自己更努力的義工,有更多人為東北做著更有意義的事情。自己所做的是極其緲少。

無論地震、海嘯、核電事故是多震撼或多姿多彩,這場災難中最重要的部份,是日本、東北之後如何從新再一次站起來的過程。

祝,東北早日康復。我會再來的。

Kachun
Sept 11th, 2011 東京恵比寿

日本.再出発 — 在日港人311地震後感 
【著】22位在日港人
三聯書店(香港)有限公司 
http://www.jointpublishing.com.hk/books/


Kachun 是這書中二十多位作者之一


****************************************************************
Please follow “Japan Reboot Project" on facebook for more updates
請多多支持 “Japan Reboot Project”
“Japan Reboot Project” のページをご覧ください。

facebook.com/japanrebootproject

****************************************************************

As Tears Go By, 6 months after – Miyagi Volunteer Experience (English)



"As Tears Go By, 6 months after – Miyagi Volunteer Experience"
中文版 - here
日本語 - here

"The Weights in the Hands"

I had heard of the bad smells and hygiene problems in the disaster area.
I finally made my way there in July and saw foods which had been sitting outside for the past 4 months, covered with flies and various kinds of bugs, although the smells in some parts of Delhi were even worse when I was there before. (Don’t get me wrong, I love India.)

The volunteer group that I joined arrived in a fishermen’s village near Ishinomaki, Miyagi.

The disaster area was the same as the one I saw on the news.
I didn’t know this place, and I had no personal connections with this village. I didn’t know what it had looked before the tsunami. This was the way it looked now, and it might always have been like this.

Some houses were collapsed, some sunken in the ocean, showing only their triangular roofs.
Beneath the sea surface, a broken and twisted paved road with dashed white lines was showing the way to another world.
In many places, it was difficult to tell the borderline between land and ocean.

Before we arrived at the fishermen’s village, we passed by an area where the clearing was almost done. In front of my eyes was just a wide open area. It was only after I looked more carefully that I could see the endless number of building foundations still there on the ground, spread out across the field to reach the base of mountains in the distance.

Pictures and videos of the disaster area had constantly saddened me since the disaster happened. but as soon as I was physically there, seeing it with my own eyes, that sad feeling was gone. The tears that this scene used to put in my eyes had stopped as well.

I only thought, “It’s finally time to do something for this village.”

I took out the charity postcard that my friends and I have been using to raise money in Tokyo, and stuck it onto my helmet. I thought of the support I had received from them and friends around the world, and I thought of the many stories that happened during that chaotic period of time.

We spent 2 days in this fishermen’s village, cleaning up houses and warehouses.

I didn’t know much about fishermen’s lives. Besides fishing nets and hooks, there were many other tools of their trade that I had no idea what they were.

There were piles of paper trash and bags of powder inside the warehouses. They were still soaked with sea water and weighted like big bags of rice.

We had to use heavy-duty hammers to break up tables and doors so that they could be moved easily.

While we were cleaning one of the houses, I didn’t know for how long, a skinny old lady arrived. She checked into the things that were nicely organized and placed in the front yard, then proceeded to the main house. She sat on the wooden platform/corridor that went like a belt around the house: A place that I, a newcomer, hadn’t noticed – from there, you could see the front yard and the ocean ahead of you.
Her dress and the way she sat fit the house at her back perfectly.

I could never know exactly how she had felt while watching volunteers moving things out from the warehouse, breaking things apart, and tossing them onto the back of a truck.

It’s just my own imagination that there’s where she used to sit while looking at the ocean and fixing fishing nets, watching her husband and family members coming back from fishing, sharing laughter or fighting with them, watching her grandchildren playing the front yard, exchanging gossip with her neighbors.

I kept on thinking what her life must have been like before the tsunami.

During the two days that we were at this fishermen’s village, we continuously found victims’ personal belongings – books, magazines, decorations, clothes, shoes, dishes, chopsticks, spoons, cassette tapes, video tapes, records, laptop computers, etc. etc.

Our hands were unfolding victims’ lives from the debris, unfolding their history.

At one site that I was cleaning at, I found a trophy for a kindergarten child dated "Heisei 18th year" (5 years ago), a couple of children picture books, and toys.
Holding the trophy in my hand, wiping off the sea mud and sand, I thought of images that I really didn’t want to think of.
The only thing I could do was to wish the kid the best of luck, even though I have never met him or her.

At times, I could see other volunteers staring at something they found, and pausing for several seconds.

Everyone’s faces were covered with helmets, goggles, masks. But their feelings were clear through body reactions.

Rocks and stones from broken walls, sea water soaked blankets, futons, and tatamis, they all needed a few people together to move.
In my own hands were personal belongings of numerous victims.
My body and my mind slowly adjusted to the heaviness in this area, the weights from the things that the tsunami had swamped.

Even for the newest items, sea water, mud and sand made them look old.

Standing in the middle of the debris, I didn’t know how I should feel about it.
And when I had time, I could only think of jokes to share with the people around me, or to talk about all these strange looking bugs that the air was filled with.

It may seem strange, but breaking walls and doors, tossing things up to the top of trash mountains, all helped me to get rid of the stress from my everyday life.

My mind used to tangle up every time I thought of this disaster. Throughout this trip, I found myself organizing my tangled mind like separating debris into woods, metals, rocks, plastics, burnable, and unburnable items.

I thought of my body as a great divider and it helped to reset my mind.

"Keeping Others' Memories"

We went to a gym during the last day of my volunteer trip. Our job was to clean up personal belongings found from the debris.

All the personal items were nicely placed in the gym, and they were well categorized – clothes, calligraphy screens, backpacks, hand bags, receipts, certificates, sports equipment, trophies. They were all sitting there waiting for victims to pick up.

Especially pictures, they were enough to cover half the gym.

Pictures of family gatherings, weddings, graduations. Probably because pictures of recent days were all digital, the hairstyles and fashions in almost all the pictures were from the 70s and 80s.

My job that day was to clean up backpacks and hand bags. Volunteers used brushes and toothbrushes to remove mud and sand from the items. Almost all the bags were emptied. Only on a few occasions, did money or IDs come out from the bags. If that did happen, the team leader would copy the names on the IDs onto a piece of paper. He would then wrap it around the straps.

There was another group of people cleaning pictures in a pool of water, rubbing dirt off with their fingers.

We did our cleaning work outside the gym, only going inside when we finished cleaning one bag and went to grab another one.

Just by chance, one time when I was inside the gym, I saw an old lady going through piles of pictures, looking through one picture after another one with a magnifying glass.

Then I heard her saying, “Oh…! This…! This is mine!” She then held the pictures against her chest with both hands. Her eyes went half open half closed. She continued in a lower voice with a smile on her face, ”Thanks. Thanks a lot.”

She kept smiling while rubbing tears off from one corner of her eye.

There were tears for having lost something important that could never be replaced.

There were tears for having found the important things that she had thought were lost forever.

At that moment, I thought I began to understand what all the work was for.

Before we took off from Tokyo, in a conversation I had with another leader, I heard, “In Japan, the way to clean up a disaster area is to use our hands, to dig into the debris and find things that may be important to victims. If we use only machines to quickly move everything away, everything would then be destroyed. Victims would then have absolutely nothing left.”

Victims’ memories were buried under the debris. Their treasures were there under the debris.

I was lucky enough to be able to see the lady’s smile. I was there for only 3 days but understand the meaning of this trip.

Whenever a natural disaster happened before, the earthquakes in Sichuan and Haiti, the flooding in Katrina, I had just made some donations and continue my own life.

But the day when this earthquake happened, it was strong and long enough that I was on my knees at my place, holding onto the door arches. My mind went blank. Then there was the continuous sadness from watching what happened in Tohoku and the fear from Fukushima nuclear power plant crisis. I saw many tears of others and my own. Watching all these, I felt as if I was being forced to read a book with missing pages. I couldn’t understand what it all meant. There were times I wanted to put down this book. But I thought to myself: this was an essential lesson for me. I chose to keep reading and started looking for the missing pages.

It was a conscious effort to control my emotions and worries over the past months since the quake happened. I kept doing different things, hoping I could find the answer. I patiently waited for the chance to come to Tohoku.

On my way from Tokyo to Miyagi, road signs of Fukushima, Souma, Miyagi, (names of places that I didn’t know of until after this triple disaster) showed up one after another on the window of my bus. When our bus finally arrived in Ishinomaki, it was as if I finally reached the black hole deep inside my heart.

I still couldn’t fully understand what I have learned from this volunteer trip. But I could see the missing pages slowly surfacing.

I came to Tohoku for myself.

And after the trip, I found myself looking at this disaster memory more directly than before.

“Thanks,”Something I wanted to say to the old lady I saw in the gym. Her smile brought me courage.

I could never imagine what she had gone through since the tsunami.

"To the Next Japan"

One day during the volunteer trip, at around 2 o’clock in the afternoon, a 5.5 earthquake happened. Everyone had to go up to the mountain and wait until the “no tsunami warning” notification came.

We went back to the village and were about to pick up our work again. But the officials were afraid that bigger earthquakes could be coming. Everyone had to leave the area.
Volunteers unwillingly stopped their work. No one had come all the way to Miyagi to leave work early.

In the past 2 days, we all knew rest was important especially for this kind of painstaking work. But sitting waiting while watching the debris in front of my eyes, it was a patience test.

For the 2 nights before that day, many of us had been sitting around, drinking, and chatting. But that evening, the time we could do that was a bit too long.

This volunteer trip somehow reminded me of the backpacking days - I was in a very unfamiliar environment, meeting and speaking with people with different backgrounds.

Besides volunteers from all over Japan, there were also a few volunteers from Europe and America.

One of them was Thomas, from Switzerland. He used to be a marketing manager for a travel agency that focused on Japan. But since the earthquake happened, all the Japan tour reservations got cancelled, and there was no new booking since. So he decided to quit his job and starting from August of this year, began to walk all the way down from Hokkaido to Kyushu. He hoped this could help bring positive images and messages to people.

And there was a couple from Denmark, the guy 20, the girl 19.

Also, there was a father and son from America. The boy was only 16 years old.

Everyone was upset by how news from their own countries only showed the negative side of this disaster. And quite often, the reports were irresponsibly exaggerating the situation. But everyone also agreed that’s the reason why the whole world was looking at Japan and brought them over to disaster area to help.

There were many Japanese I met who have done volunteering work more than once.

Mr. Kurihara, a 70 year-old man, who kept on thanking us, a group of foreigners, who came to help. He was also always buying us beer during dinner.

Another woman I talked with was already in her fourth time doing volunteer work. Both of her daughters were now volunteering in a hospital near Fukushima nuclear plant for 3 months.

It took about 7 hours to come back to Tokyo from Miyagi. Since one person’s birthday was nearby, we bought a cake and drinks from a rest area and had a little party on the bus.

While I was in Miyagi, I also found out that a friend of mine was doing volunteer work in Iwate.

There were also many other stories I heard during this trip. The joke that I quite like was, if you translate “Ishinomaki” into English, it could be “Rock and Roll City.” (in Kanjis, “Ishi” is rock, and “Maki” is roll.)

When I was back in Tokyo, I looked at all these random things I had in my sitting room, thinking of their stories and histories. I pictured a scene of volunteers finding my personal items in a big ruin.

Since I came back, I have talked to a couple of friends about this experience ( especially to the people who were originally from Tohoku), they all thanked me for helping their homeland.

I was thankful for their compliments. They made me feel good about myself. But I also understood that, I went to Tohoku just to make myself feel better. And during this trip, I got more than I gave.

Besides, there were many more volunteers who were devoting themselves to helping Tohoku, much harder than I did. There were many more people doing something much more meaningful. What I did was small.

No matter how explosive or eventful the 311 earthquake, tsunami, and nuclear plant crisis were, the most important part of this disaster was the process of Japan standing up again.

I hope Tohoku will get well soon. I will go there again.

Kachun
Sept 11th, 2011
Tokyo Ebisu

日本.再出発 — 在日港人311地震後感 
by 22 HK people living in Japan
Joint Publishing (HK) 
http://www.jointpublishing.com.hk/books/


Kachun is one of the 20+ writers of this book for charity


****************************************************************

Please follow “Japan Reboot Project" on facebook for more updates
請多多支持 “Japan Reboot Project”
“Japan Reboot Project” のページをご覧ください。

facebook.com/japanrebootproject

****************************************************************